忠臣蔵で有名な赤穂に行って来ました。

赤穂浪士忠臣蔵は有名で、浅野内匠頭吉良上野介との物語です。
江戸城本丸の松の廊下での刃傷沙汰に始まり、大石内蔵助他46人の討ち入りについて少しですが、見て来ました。
ここからは、私自身の想像も含み、赤穂での情報のみで、吉良側の情報無しですのでご了承くださいね。
事の発端は、江戸時代の将軍・徳川綱吉の時代です。毎年お正月の天皇の使者である勅使を江戸城でお迎えする儀式があり、その接待役に赤穂藩主:浅野内匠頭伊予吉田藩主:伊達村豊の2名が命名されました。そこに、古式風習に詳しい、高屋肝煎:吉良上野介が指導し接待の準備をしました。
小説やドラマでは、吉良上野介浅野内匠頭を意地悪する様に描かれています。事実は、憶測が多数あり解りませんが、意地悪的な事はあった様です。
時の1701年3月14日、浅野内匠頭吉良上野介に斬りかかるという刃傷沙汰を起こしました。江戸城本丸の松の廊下です。吉良は、背中と額に刀傷を負った様です。浅野を取り押さえたのは、留守居番:梶川頼照だったそうです。
吉良は、恨みを買うような覚えは無い。浅野が乱心したのでは。と、言い、浅野は、個人的遺恨があって刃傷沙汰に及んだと言われています。
おかしいですよね。指導員の吉良は62歳、浅野は35歳、年齢の差がありますが、吉良は、指導者の命を受けている立場、何故浅野に対して意地悪をする必要が有ったのでしょうか?接待役を指導する立場の人が、儀式で粗相などあれば、指導者が問われるのでは?
殿中での刃傷沙汰は禁止であり、そんな事をすればどうなるかは、浅野も知っていたはず。3月14日は、勅使を迎える日であったにも関わらず。でも、それ以上に、頭に来た?
本来であれば、喧嘩両性敗となり双方に罪が問われるはずが、浅野は、即日切腹、吉良は、お咎め無しの判決だったそうです。
吉良は、無抵抗で怪我を負い、浅野1人が悪者みたいになってる。
それを聞いた赤穂藩の筆頭家老:大石内蔵助は、さぞかし驚いたでしょうね!
その後、吉良は御役御免願いを出し、本所の屋敷に戻り隠居となったのですが、赤穂浅野家は、お家断絶のうえ赤穂城を幕府に明け渡したとされています。
大石内蔵助は、浅野大学を擁立し、浅野家再興に活動しますが、浅野大学の広島藩お預かり処分となり、浅野藩再興の望みが断たれます。
同年、7月28日に、大石内蔵助らは、吉良上野介を討つことを決意し、同志達を江戸に集めました。しかし、赤穂浪士は浪士だったため、収入が無く、脱落する者や、命が惜しくなった者が相次いだそうです。
京都の山科から江戸へ向かい、同年10月26日に、大石内蔵助は、川崎平間村の軽部五兵衛宅に滞在し、最初の訓令を出しました。その後、江戸に入り日本橋近くの石町3丁目の小山屋に居場所を構えて、吉良邸の探索をし、屋敷の絵図面を入手します。
吉良邸で茶会が開かれ、確かに吉良上野介が滞在すると言う確証を得て、討ち入り日を決定し、同志達を深川八幡の茶屋に集結させました。
大石内蔵助は、討ち入りの人員配置、武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置などを細かく定め、1702年12月15日の未明、雪の舞う冬の江戸に、火消装束を着た47人の赤穂浪士は吉良邸に討ち入りました。
吉良側も討ち入れを予測はしていたものの、赤穂浪士の作戦勝ちで、浪人を部屋に閉じ込めたり、寝起き時刻で体が動きにくい早朝を狙ったこともあり、2時間近くの激闘で吉良の首を討ち取ったそうです。吉良上野介:享年62。
吉良の首は、赤穂浪士の行列により、泉岳寺浅野内匠頭の墓前に捧げられた後、僧侶によって吉良邸に戻されたそうです。
忠義を貫き敵討ちを果たした赤穂浪士の行列には、江戸の庶民も拍手喝采だったとされているようです。
赤穂浪士寺坂吉右衛門は、密命を与えられ去ったが、残り46名の赤穂浪士は自首し、諸藩の屋敷にお預けとなりました。
幕府は、武士道の鏡であり、あっぱれと言えども、幕府を恐れない所業として、翌年1703年2月3日に切腹の命が下されました。翌日には、46名の遺骸は、泉岳寺の主君:浅野内匠頭の墓の周りに埋葬されたそうです。
武士の鏡とされ、忠義を果たし、幕府の間違いを正し、藩主の仇を討ち、自ら命を落とした浪士達に感動しました。本当の忠義ですよね!
機会があれば、又行きたい場所となりました。